| 2004年02月のE-Style |
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| 2004年 2月 22日 [日曜日] |
| 明日から本会議 |
明日から平成16年第1回本会議がスタートします。 日程は3月24日までです。
無所属議員の個人質問ができる日程は、3月3日となります。 私が、今回質問させていただくこととしては、 大きく2つに分けて ・大型の公共事業における事前評価の導入について ・指定管理者制度のルール化について を予定していますが、最終原稿ができ次第、またお伝えします。
取り急ぎという感じでごめんなさい。
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| 2004年 2月 19日 [木曜日] |
| 第1回定例会の準備 |
本日、全員協議会が行われました。議場において、議員全員に対して、平成16年度の予算の概要について、市長、副市長から説明を受けるものでした。
今回配布された資料は、10cm近い厚さがあります。(まだ、この後、委員会用にどーんと来ると思いますが) 予算のチェックは、議員職において、重要な仕事のひとつであり、より大きな責任を感じます。今回、予算に対して個人質問を行う予定です。
ところで、9月の定例会で、「実効性のあるポイ捨て条例の制定」について、一般質問をしましたが、路上喫煙に過料を設けた条例を全国に先駆けて制定した千代田区生活環境課から「路上喫煙にNO!」という書籍(発行:ぎょうせい 定価:1714円)が出されています。 「まちをきれいにする」という強い決意と意志のもと、取り組んだ行政マンたちの苦闘の日々が描かれていて、勉強にもなる上、けっこうじーんと感動できるものに仕上がっているので、機会がありましたら、ぜひ、読んでみていただけたらと思います。
今は都内の区や全国でも、同様の取り組みを行う自治体が出てきました。 また、県内ですと、逗子市も条例制定に向けての動きが出ています。 それなりの予算もかかり、市民の皆さんと市が一体となって、本気で取り組んでいって初めて実効性を持たせることができる市民参加型の条例だと思います。今後、さらに他自治体での検証・横須賀市との比較を行い、あらためて議論のテーブルにのせていきたいと考えています。
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| 2004年 2月 15日 [日曜日] |
| 言いにくいことを伝えること |
今日は午後から、「民意が市政に生される事を願う会」主催の『もうひとつの美術館トーク』に参加してきました。
当初予定にはなかったのですが、途中機会をいただき発言させていただきました。 その中において、IT化を進め電子入札システムを導入したこと、高齢者虐待防止ネットワークなど、他の自治体より先駆けて様々な施策を進めてきた沢田市政を評価させていただいている部分もあるということ、地方分権が進み、補助金や交付金の見直しが行われ、ますます、まちの体力が問われる時代となっていく、財源を生み出すために活力あるまちを作るということで交流人口を増やす攻めの施策を推進していく必要もあるという考えも理解できるということ。(イコールそれが、ハコモノをつくるということでは、もちろんありません)
今定例会へ美術館の予算が、4億9千万出されてきます。 この予算に対して、他の無所属の議員の皆さんとその対策について話をしていますが、あえて、この予算案が通った後についての私の意見を述べさせていただきました。 経費コストの削減やサービス向上のために指定管理者制度を美術館へ活用できないか、多くの人を魅了する美術館づくりを進めていくには、市民の税金が投入されるわけですから、市民ニーズをどういった形で反映させていくのかなども考え、行政へ提案していくことも議員の仕事です、と。
予算が通過した後の話はこの席ではすべきではなかったという意見も終わったあと、いただきました。 また、同じく終わった後、参加された他の議員の方から同様の思いはあると聞きました。
民意の会の皆さんは、9月以降、ポスティングによって、10000人近い署名を集めることができたと伺いました。 私も以前、ボランティアでひとりで歩いて10000件近く、ポスティングをした経験があります。 真夏で冊子だったので、暑くて重くて地味な作業だったと今でも忘れることはできません。 ほぼ市内全戸配布を達成された民意の会の皆さんの熱意に深く敬意を表します。
その先の対案は常に考えるべきであるし、言いにくいことを伝えることも、政治家の仕事だと私は思います。 今日は批判を覚悟で申し上げました。緊張で心臓がバクバクしていたので、ここに書いたとおりには話せてはいないと思います。伝わりにくく、理解しづらい部分もあったと思います。
会場にいた方、そして民意の会の皆さん、冷静に耳を傾けていただいたことを本当に感謝しています。ありがとうございました。
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| 2004年 2月 13日 [金曜日] |
| ホームページ |
オブザーバーとして参加している議会IT化運営協議会が開かれました。 主に、ホームページや電子メール等、電子情報・システムの取り扱い方などの要綱ついて話し合われました。
数年前と比較して、議員がHPを駆使して政治活動を行うことは珍しいことではなくなりました。 多くの議員がHPを持つという状況において、私も友人や支持者の方の助言や協力等を得て、現HPに至ります。しかし、自分のHPの在り方、自分の活動の中でのHPの位置づけ、また、そのコンテンツが、議員の個性や主張を反映させるツールのひとつという考えのもと、色々検討していたところ、ある東京の区議会議員の方のHPにたどりつきました。 その方と多く話すうち、自分自身のHPに対するビジョンというものが見え始めたところです。
桜の季節には、新しい形のもので、政治活動を伝えていきたいと考えています。
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| 2004年 2月 12日 [木曜日] |
| 「パレスチナを訪れて」 イギリスからのEメール |
友人の妹が、イギリスの大学院の平和学部紛争解決学科に留学しています。 彼女は私の選挙の主戦力でした。どちらかと言えば、いまどき風の23歳の女の子。 彼女の将来の希望は「世界平和へ貢献する仕事に就くこと」。 去年の8月、彼女はそれを実現に進める1歩として、イギリスへ旅立ちました。 時折、メールのやりとりをしていましたが、先日、彼女が体験したことをレポートにして、送ってくれました。 とても、長いレポートとなっています。 ここでお伝えするには、かなり読みにくいかとは思いますが、23歳の大学生が感じた率直な思いを伝えるには全文載せるべきと判断し、ほぼ原文のまま、掲載しました。 彼女のレポートの中に書かれている通り、「今あるパレスチナの現状を日本に伝えてほしい」、彼女がパレスチナの人たちに託された願いの一役になれればという思いから紹介します。
このレポート中でパレスチナの人から「日本はなぜ、自衛隊を派遣するのか」という問いかけが出てきた箇所がありました。 国の決定は、日本は戦うためにではなく、イラク復興・人道支援のために自衛隊を派遣したということ。 今回のもともとのイラク派遣に関しては、国際協調・平和の中で、日本の役割、そもそものコトの発端の大義に関する疑義、そして、国会の中での政党同士の政争の具として取られかねないような場面もありました。
日本という国、世界の中の日本の立場、日本とアメリカの関係、そして、何よりも実際に赴いている方、赴く方、その関係者の方の気持ち。 昨年の第4回定例会の際、議員から出された自衛隊派遣の安全が十分確保された上で派遣すべきではないかという内容の意見書に対して賛同の起立をしましたが、非常に重く難しい問題と捉えています。
同国の人間として、自衛隊の皆さんが1日も早く、無事に帰国をされることを祈ります。
「パレスチナを訪れて」 12月11日〜12月20日までイスラエルを訪れた。 私は平和な国で育ち、やや平和ボケ症候群の日本人である。あくまで戦争、紛争という言葉はテレビや本の中での出来事であり、「平和でない」状態をイメージすることができない。ドキュメンタリーやニュースを見て未だ想像を絶する紛争地域があることに愕然とし、平和への課題を目の前に突きつけられる度に、彼らが、この地で望むことは何なのだろうかと考えるようになった。
ニュースでは連日のように事件が起こっている。正直、とても不安だった。けれど平和学を学ぶ今、本やニュースだけの情報だけに頼っていて真実を知らないのではないか、という漠然とした疑問、真の平和を望むのであればただ机に向かって勉強するのではなく、フィールドワークが大切であると日々考えていた。理論だけで実践を伴わない平和活動家にはなりたくない。 日本ではアメリカ、イスラエル側からの情報が入るが、実際パレスチナの人の暮らしはどうなのだろうか?かつてドキュメンタリーで見た難民の子供達は今どのような状況に置かれているのだろうか?自分の目で、和平への可能性を確かめたいと思い12月11日、イスラエルへと旅だった。
旅行者としての感想はとても美しい国だった、ということ。人々はみな親切で暖かかった。西岸地区には自然も多く残っており、その反面イスラエルは都会でそのコントラストも非常に面白い。エルサレムの旧市街は狭い通りに沢山の店がひしめき合っていて活気がありエネルギーに満ち溢れていた。 しかし、平和学を学ぶ学生として正直な感想を述べるならば「現在のままでは和平へのハードルは高すぎる」というのが的確であろう。滞在中、多くの方達に協力をいただき、いくつかの平和活動団体の方達にお話を伺うことが出来た。彼らへのインタビューや、イスラエル滞在中に出会った人々から私は「和平へのハードル」を感じずにはいられなかった。
その理由は第一に、人々の心に根強く残る敵対心。この確執が、すべての人が平和を求めているにもかかわらず、パレスチナ側とイスラエル側の協力を困難にし、両者の意見に相違をもたらしていた。平和活動をしている人々であってもお互いに批判しあっており、同じ和平を模索しながらも彼らが目指すゴールには明らかな相違があった。お互いが両者の立場を理解しあい、合意し、もしくは譲歩していかないかぎり、和平への道は遠いだろう。
第二に理想と現実のギャップだ。この問題を解決させるにはあまりにも多くの時間が流れてしまった。多くの平和活動家がおり、国際社会にここまで注目されながらも、問題が先延ばしにされてきた。平和活動団体の方達に中にさえ、一方で理想を追い求めながら彼らには賄いきれない現実を目の前に和平を「諦め」かけている現実を目撃し、私は空虚感を感じずにはいられなかった。
問題をつくることは簡単だが、それを解決するにはそれ以上の時間を努力が必要である。これらのハードルを乗り越えるためには長い時間と社会全体の努力が必要であろう。社会全体の努力とは政府の政策転換と個人の意識改革である。双方の政治のリーダーが自分の利益のみを考えるのではなく真の平和も求めるのであれば和平への道はそれほど遠くないのではないか。そして個人個人の問題意識の向上と相互理解が必要不可欠であると私は考える。
いくつか私が経験した出来事との中から印象に残ったものを挙げて私なりの感想を述べていきたいと思う。私は中東問題の専門家でもなくただ平和を望む一学生である。いくつか私の解釈が間違っている可能性もあることをご了解いただきたい。特に今回の旅行はパレスチナ人との交流を多くしながらもイスラエル人と話す機会が極端に少ない旅であった。そのため、いくつかの点で私はパレスチナ側に偏った意見を持ってしまった。平和を考える上でこのような偏った考えは厳禁であるが、外部から紛争問題に立ち向かう際に両者公平な立場に立つことが非常に難しいことであると身をもって体験したことを追記しておこう。
1、分離壁反対デモにて〜プロパガンダの脅威〜
滞在中、イスラエル側平和団体主催の分離壁反対デモに参加した。その際にパレスチナ側とイスラエル側の意見の相違に直面した。このデモ自体はイスラエル側団体とパレスチナ側とのジョイントデモであったが、実際に話を聞くと彼らの提起する壁に対する問題点には大きな相違があった。 パレスチナ側の分離壁反対の目的は、壁の全面崩壊である。イスラエル側の反対者たちはまず、壁を「分離壁」ではなく「防衛フェンス」だと定義している。よってフェンス自体の建設に反対しているわけではなく、イスラエル国家の防衛のためには必要なものであるしのちに明確な国境になることを考えると歓迎されるべきものだと考えている。そして彼らがフェンスに反対する理由はフェンスの位置がグリーンラインを大きくはみ出していることらしい。
壁の建設は、すでにパレスチナ人の多くの家屋や農地が破壊され土地が接収されている。これにより多くの人が壁の外に取り残され生活が困難になるだけでなく、パレスチナ各地を小さな区画に分断し、人々や物の移動を制限するため、自立したパレスチナ国家建設を事実上不可能にすると考えられている。壁の建設は、パレスチナの土地を少しでも多く収奪して占領を永続化させ、国境を既成事実化してパレスチナの弱体化を図ろうというイスラエル側の政治的目的を明示している。 国連では「壁」の建設中止と撤去を求める決議が賛成144反対4(米国、イスラエル、ミクロネシア、マーシャル諸島)棄権12で圧倒的支持を得て可決されており、現在は国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)にもアラブ諸国が訴えている。つまり、壁の建設自体、その壁がどこのライン上に建設されているにせよ、国際法と国連安保理決議に違反しており、壁建設によるパレスチナ側の被害は甚だしく、よって問題解決には分離壁の全面的崩壊というパレスチナ側の主張こそがもっとも適切であると思われる。 しかしイスラエル政府は壁の建設を中止する意図は全くなく、国際社会の動きがどうなるかによって、壁のルートが微妙に変える政策である。またイスラエルの国民の7割が「安全保障フェンス」の建設に賛成しており、反対者であってもその多くが問題を取り違えているようである。
この現実は一般市民達の問題認識の甘さを顕著に表している。そしてこの原因となっているのは政府によってコントロールされたイスラエル内の限られた情報システムではないかと考えられる。多くのイスラエル人は実際に既に土地を破壊され、被害をうけていることを。壁の建設のみならず、イスラエル政府の圧力により日常生活を送ることさえ困難をきたしている人々がいることも知らないのである。 またイスラエル国民のみならずパレスチナ人の中にも壁の建設に賛成している人がいた。彼らはパレスチナ国家としてしっかり国境が作られるのであれば望ましいと考えているのだ。西岸北西のカルキリヤにあるジャユース村には農地の真中に壁が建設され、そこに住む人々は農作業をすることが困難になっている。しかし、そういった事実はパレスチナ人の中でも認識されていないのである。実際パレスチナの各村はそれぞれ固有の文化を持っており実際には遠く離れた村のことを知らない。これは今後もしパレスチナ国家が建設されたとしてもひとつのまとまった国として存在していくことの難しさも顕著に表している。
Joe Sacco著「PALESTINE」という漫画を読んだ。これは作者が1991年から1992年に旅行したときに見たパレスチナの現実を描いたものである。一見コミカルに見える。しかしここには確かに私が見てきた現実が描かれていた。訪問先では必ずお茶をふるまってもらい、彼らは自分たちのことを積極的に話す。雨が降ると川のようになる道路、難民キャンプ、イスラエル兵の横暴、等。しかしこれを読んだイスラエル人の友人は「面白い漫画ね。でもありえないわ。」といって現実のものだとは受け止めていなかった。彼らは本当に、パレスチナについて知らないのである。
イスラエル政府は自分たちの国家を守るためにはさまざまな防衛措置が必要であるという。チェックポイントを設け、壁を建設し、徹底的にパレスチナ人の行動を制限する。そして多くのイスラエル人はこれらの「防衛措置」は自分たちの安全を確保するためには必要不可欠であると考えている。これはいわゆる政府による先導行為ではないか、と私は思った。そして私はルワンダの虐殺を思い浮かべてしまった。このような先導行為は民族紛争ではよく利用されるパターンなのである。たとえばルワンダの内戦のケースが挙げられる。 ルワンダではあるラジオ局が「ツチ族がフツ族を襲ってくる。殺るまえに殺れ。君達の貧困はすべてツチ族によってもたらされたものだ」という主旨の放送で流し続けた。それにより、なんと実際にフツ族によるツチ族虐殺が始まったのである。プロパガンダというのは非常に恐ろしいものだが限られた情報源の中で生活をしていると国民はそういったものに影響されやすい。したがってより幅広い情報公開が大切である。
オルターナティブインフォメーションセンターでイスラエルの学校における歴史教育について尋ねた。彼らによるとイスラエルの学校ではユダヤ人の歴史しか教えないという。限られた歴史教育により子供達は狭い視野しか持てなくなってしまう。教育により思想統制することも可能なのである。社会全体の考え方を変えていくためにはまず広範囲にわたる情報提供とより自由な教育環境が大事であると私は考える。個人個人の意識改革こそ平和への大事な一歩であると思う。
2、チェックポイント〜若すぎるイスラエル兵〜
イスラエルの国土はほぼ四国と同じ程度の小さな国である。そのなか西岸地区とガザ地区には約140箇所のイスラエル軍による検問所が設けられている。検問所では、銃を構えたイスラエル兵が、パレスチナ人の身分証や荷物をチェックするのである。
以前見たパレスチナ、イスラエル共同制作の「プロミス」というドキュメンタリーを見たとき、「チェックポイント」という存在を初めて知った。国境のない島国からきた日本人の私にとっては陸路で超える国境さえ想像するのが難しい。しかしひとつの国家のなかに無数のチェックポイントが存在するということが不思議だった。実際訪れたチェックポイントは私が韓国のボーダーである北緯38度線を訪れたときに感じた緊迫感そのもの、むしろそれ以上のものが漂っていた。銃を持つ兵士、通過を待つ人々の列、渋滞する車…・。そこはまさに敵対する国の間にある油断の許さない「国境」、だった。ここではチェックポイントにまつわるいくつかのエピソードを述べていこう。
イスラエル側からパレスチナ側の移動は比較的自由だがパレスチナ人がイスラエル側に「入国」する際には厳しいチェックを受けなくてはいけない。しかもただのIDチェックではなく理由も無く人々を待たせることがある。しかも状況により、封鎖されて通行できず、しばしば屈辱的な扱いを受けるらしい。しかし、パレスチナ人は黙って自分の順番を待っていた。 チェックポイントに配置されているのはイスラエルの徴兵制度により召集された若干18〜21歳の兵士達である。イスラエルには徴兵制度があり男子は18歳〜21歳の3年間、女子は18歳〜20歳の2年間、兵役義務がある。したがって彼らの多くがまだ若い。そしてその未熟さ、未経験さのために、多くの兵士達は自分たちの権利と義務を誤解しているように私は感じた。
彼らの義務は国境警備、しかしなしうるべき権利は入国審査のみで十分なのである。しかし実際は銃を持ち、意味も無くパレスチナ人を待たせ、それを楽しんでいる。確かにチェックポイントは事実上国境でありそこに配置されている兵士は前線にいるようなものだ。そして若干18歳の若者が銃をもたされ、「いつ襲ってくるかもしれない敵」を相手に国境を警備する精神的ストレスは相当なものなのかもしれない。 しかし武器をもたない無抵抗な市民(パレスチナ人)に対し,銃で脅し、理不尽な振舞いをする兵士に私はその必要性を全く感じず、疑問を感じた。そう、パレスチナ人は長い列に並びながら、無抵抗だった。雨の激しく降る日も、風の強い日も、老人も妊婦も、皆じっと口をつぐんで待っていたのである。
支配し、支配される。イスラエルとパレスチナの間にはその関係がはっきりとみてとれる。イスラエルとパレスチナの関係は決して対等ではない。パレスチナは完全にイスラエルのコントロールの下にあった。 これはチェックポイントのみでない。ラマッラ―にある人権団体の方は警察も、国境警察も、すべてがイスラエルのコントロール下にあると言っていた。彼はIDカードの名前が間違っていると申請したが、主なデータはすべてイスラエルに管理されており、自分の名前を変えることさえも出来なかったらしい。彼はすべての問題はイスラエルの「占領」が問題だと指摘した。つまり、現在パレスチナには外国(イスラエル)による管理下にあり、彼らは武力のよってこの地を占領している。そして占領とは一国の中に介入してそこに住んでいる人々をコントロールすることだと語っていた。 国際法では一国による外国への武力介入は基本的に禁止されている。(国連憲章2条4項)したがってイスラエルの占領行為は国際法に違反しており、直ちに中止されなければならない。彼は国際社会への呼びかけとして国際法を尊重すること、パレスチナ人の人権の尊重を求めていた。(しかし実際国連憲章の不介入の原則は意味が曖昧な部分も多く、国際社会で遵守するべきものとしてはあまり強制力のあるものではないのが現状である。)
チェックポイントにまつわるエピソードとしてひとつ印象的だったのはチェックポントへのパレスチナ人の対抗手段であった。検問は至って気まぐれでいつ通れるのかどうかは警備中のイスラエル兵の性格、機嫌によって左右されるといっても過言ではない。 しかしそれに対しパレスチナ人も生活の知恵として裏道を使って対抗していた。ある日、エルサレムからナブルスへと向かった。ナブルスに入るにはもっとも警備が厳しいといわれる「フアラ」というチェックポントを通過しなくてはいけない。 私達が訪れたとき、ナブルス郊外にある「バラタ難民キャンプ」でイスラエル兵による軍事作戦が展開されており、外国人は人道支援目的の国際団体の人々やジャーナリスト以外は通過拒否をされてしまった。 どうしてもナブルスに行きたい、と思いながらもあえなく断念しかけたとき、チェックポント前に屯っていたパレスチナ人のタクシードライバー達が私達に話し掛けてきた。「どこへ行きたいのか」と。私達は「ナブルスへ行きたい」と告げると、「アワルタ」というフアラからそれほど遠くない別のチェックポントへ連れていってくれた。 そこに並んでいたパレスチナ人に「ナブルスへは通してもらえないかもしれないからラマッラ−に行きたいと言って入るのがいい」といわれ、イスラエル兵とすったもんだした挙句、ついにチェックポントの裏側に入ることができた。しかし、さらに中に入るともうひとつチェックポントが存在し、本格的に通してもらえなくなってしまった。 しかし、そこにもたむろしていたパレスチナ人がついてこい、といってなんと畑の中を通って山を越え、ついにナブルス市内に到着することが出来た。パレスチナ人はこうやって回避道路を使ってなんとか生活と続けることが出来るのだ。そして得体のしれない旅行者に自分の身に危険を犯してまでこんなに親身になって助けてくれるパレスチナ人はとても親切で友好的だと思った。
チェックポイントはパレスチナ人の生活に困難をきたすものであるが、それと同時に旅行者である私達にとっても大きな障害となった。上記の記述もそうだが、ナブルスからカルキリヤに向かう途中にはベッティ―バ、アッナ―ヴチェックポイントがあった。アッナ―ヴチェックポントでは「通過許可証がいる」ともっともらしいことを言われ、結局通過できなかった。後に同じ日にそのチェックポイントを通過した日本人は難なく通過できたらしい。本当に「気まぐれ」なのである。 多くのイスラエル兵は通過できない理由の一つに「危険だから」と言う。「危険でも友人に会わなくてはいけない」というとボスらしき人達と相談を始める。とりあえずパスポートを見て、私のヴィザ満載のパスポート見て楽しんでいる。IDチェック自体にはほとんど意味がなく、単なる「嫌がらせ」「暇つぶし」なのだと強く感じた。 チェックポイントはつくづく自分の無力さを感じた場所でもあった。カルキリヤに入れず、私達は敢え無くエパレスチナ人の乗る大型バスでルサレムへの帰途についた。その途中の検問所ではなんと2時間以上も待たされることになった。バスが止められる。全員バスの外に出され、IDチェックを受ける。私達はすぐにパスポートを返され、バスに返してもらうことができた。そして次に女性や子供、40歳以上の男性もバスに戻る。それ以外の若い青年達はバスの外で永遠に待たされていた。 よく見ると、なんとそのイスラエル兵はその脇で携帯電話のゲームをして遊んでいる。私の「観察」は「睨み」に変わっていった。そして涙がでてきた。外からパレスチナ人の青年に「君、見ていないで僕達を通してもらえるように交渉してよ」と言われた。私は躊躇せずイスラエル兵のもとに向かった。意味がないかもしれない、けれど少なくとも私が今、出来ることをやりたい、と思ったからだ。しかし、「今IDチェックをしているからあと10分待て」といわれ、10分待っても一向にバスは動く気配がない。もう一度交渉しに行く。こみ上げて来る悔しさを隠し、出来るだけ努めて明るく、にこやかに。私は彼らに「バスに具合は悪い老人がいて病院に行かなくてはいけない。学生は授業に遅れてしまうし教授も自分の授業に間に合わない。」それに対して彼らは「そんなこと関係ない」という。友人が「具合が悪い」と真に迫る演技で兵士に訴えるとようやく通してもらえた。所要時間2時間、ようやく通過することができた。その後も何度かチェックポイントがあったが、その度ごとに私は憤りを感じていた。
なぜこのような理不尽な兵士の振舞いが許されるのか?私は自分のパスポートを広げてみた。パスポートには「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ同人に必要な保護扶助を与えられるよう関係所官に要請する」とあった。彼らは私にとっての通路故障であり、たとえ、私の具合が悪いといっても助けはなかった。これを国際社会に訴えることは出来ないのだろうか?と無理を承知しながらも怒りを押さえることができなかった。そして彼らが偉そうな態度をとれる原因は背中に背負っている銃なのだとも思った。小型武器問題の早期解決も必要だと感じた。 更に、パレスチナ人の日々の生活に対する負担は紛れもない事実であり、イスラエル政府は兵士の統制をもっとしっかり図るべきであり、国際社会はこのような占領行為に対しもっと批判を強め、イスラエル政府にプレッシャーをかけることも必要だと思った。
3、難民キャンプ〜イスラエル軍事作戦vs.投石行動〜 12月16日、バラタ難民キャンプを訪れた。バラタ難民キャンプは西岸地区北の街、ナブルス郊外にある西岸地区最大のキャンプである。前述の「プロミス」と見たとき、驚いたことのひとつは、パレスチナ難民はテント生活をしているのではなく石造りのアパートのようなところに住んでいたということだった。ただ、他のパレスチナ人の街と違い、難民キャンプは狭い土地のなかにひしめき合うように家が立ち並んでいるのである。1948年、第一次中東戦争により、難民となった人々はこの土地に55年以上も住みつづけている事実を考えれば、あたり前の事実だったのかもしれない。自分の平和ボケさ加減をつくづく感じた。
大学時代にパレスチナ難民について勉強した。彼らの生活を改善するための手助けをしたいと私はイギリス留学を決め、今、平和学を勉強している。この旅行の目的のひとつは実際に彼らの生活を見て、そして彼らと話をすることだった。
私達はバラタキャンプを訪れたとき、そこはまさにイスラエル兵により侵攻を受けている最中であった。イスラエル兵の軍事作戦はバラタキャンプを始め、ガザ地区やその他西岸諸地域(多くは難民キャンプ)にて「パレスチナ過激派の掃討作戦」と称して実行される。軍事作戦では何十台の戦車やブルドーザーが街中へと進行し、武装グループだけでなく老人、女性、子供など民間人に対し発砲、殺害し、学校や病院、その他の建物を破壊する。さらに過激派の暗殺に加え、民家を占拠し、テロリスト狩りと称して子供から老人まで無差別に逮捕、連行するということも行っている。難民キャンプが掃討作戦の標的になる理由として難民キャンプに住む貧困層の間ではファタハなどイスラム過激は信仰が強く、自爆者の数も多いからであるといわれている。
キャンプ入り口につくと、子供達が話し掛けてくる。「来てくれてありがとう。ぜひ中を見ていってほしい。」遠くを見ると、煙が上がっている。私は不安をかかえながら中に入った。多くの家屋が既に破壊されている。現地の医療スタッフの話によるとその日は既に2人の死亡者が出ており、いくつかの家はイスラエル兵に占領されていた。外出禁止令が出されているということだったが私達が訪れたときは、既にイスラエル兵による大規模な活動は停止しており、住民達は少しずつ外に出て歩いていた。 道にいるのはほとんど子供達である。子供達は町を取り囲んでいるイスラエル兵に向かって野次を飛ばしていた。イスラエル兵のジープがやってくるとなんとジープに向かって石を投げ始めたのである。そんな子供達に対し、イスラエル兵は銃を構えた兵士たちを乗せて道を行き来し、挑発する。目の前で起きている出来事にショックを受けた。意味のない軍事作戦、石を投げる子供達、それに対して銃を構えて仰々しい仕返しをする兵士達…・。
子供達と話をした。パレスチナ人の子供は外国人を見ると「What is your name?」と必ず聞く。英語の授業で最初に習うフレーズらしい。 「My name is E.」というと一斉に「E!E!」と呼び出した。2階の家からも声がかかる。カメラを向けるとピースサインをしてとびきりの笑顔を私に向けてくれた。笑顔がまぶしい元気な子供達。しかしなんだかレンズの中にある子供達の姿と、現実にある彼らの人生のギャップに急にやりきれない気持ちになった。あのピースサインと、笑顔が本物になる日はいつやってくるのだろうか?私には何が出来るだろうか?考えれば考えるほど現実は遠く、はかないものになっていった。
「なぜ石を投げるの?」思いきって聞いてみた。まだ小学校低学年の子供達は「おもしろいから。」と答えた。最も年上の男の子はその質問の答えの変わりに「僕の友達はイスラエル兵に殺されたんだ。」と言った。もうこれ以上、この質問をすることをやめた。 私は彼らに石を投げるな、とは言えなかった。石を投げてそのせいで命をおとすことがないように祈るだけだった。そして自爆テロを行う人々のことを思い、つくづく私は誰一人として命を落としてほしくないと思った。彼らの思いも分からなくはない。しかし殺し合いは決して人々に平和はもたらさないのだ。イスラエル政府は「パレスチナが自爆テロなど過激派の取り締まりをすれば和平交渉に応じる」と言う。しかし、なぜ自爆テロがおこるのか、彼らは自分自身に問いてほしいと思った。すべてのものを失われ、自分自身の将来を奪われた人々の気持ちを考えてほしい。そしてそれは誰のせいなのかだろうか、と。
投石はパレスチナの社会問題にもなっている。特に難民キャンプには公園など子供の娯楽施設がなく、石を投げることだけが彼らの遊びになってしまっている現状もあるらしい。バラタキャンプで出会ったジャーナリストの女性は難民キャンプの子供のために文化施設をつくる計画を立てていると言っていた。心のケアの一貫としてそのような文化施設も必要だと思った。 パレスチナ難民の抱える問題は他の多くの難民が抱える貧困問題ではなく、彼らのアイデンティティや文化の喪失が大きな割合を占めるようだ。また身内や友人を殺された同士の確執は強く、人々の感情の慰安には長い時間と社会全体の努力が必要であろう。この問題はパレスチナのみならずイスラエルにおいても重要視される問題である。
4、入植地〜イスラエルによる占領〜
幹線道路を走っていると山のてっぺんに近代的な住宅街が見える。まるで日本の電車の中にある新興住宅街用宣伝広告を眺めているような景色である。これがまさにイスラエルによる入植地だった。美しい山の中に突如として同じ形のマンション郡が目に入ってくる。白い壁に赤い屋根の家々。なんとも奇妙で不気味な光景だった。
入植地とは第3次中東戦争で軍事占領した土地に建設されたイスラエル人のための住宅地である。現在、西岸とガザ地区の入植者は20万人以上といわれている。その目的は、入植地を拡大させることによりイスラエルの土地だという既成事実をつくることだ。 入植者の意識としては、宗教的な理由からと政策的な理由があり、宗教的な理由で住んでいる入植者の多くはアメリカやロシアなど海外からのユダヤ人であり、彼らはここが自分たちが神から与えられた土地なのだと考えており、パレスチナ人に対し攻撃的な態度をとる。政策的な理由で住む人々は安い住居に惹かれ、入植地へと引越ししてくるユダヤ人だ。入植地は遠くを見渡せるような高台に作られる。そこで水をくみ上げ、汚水を周辺のパレスチナの村に流す。入植地では木々やお花畑を作り、プールまであるらしい。そしてその無駄使いによりパレスチナ人は水不足に悩まされている。
更に一方でパレスチナ人は井戸を深く掘ることを禁止され、浅い部分から出てきた決して水質のよくない水を利用しているという。そしてパレスチナ自治区であってもすべて水の管理はイスラエル政府によってなされているのだ。さらに入植地の周りには入植者用の幹線道路が作られ、エルサレムからチェックポイントを通らずに迂回して直接入植地に迎えるようになっている。そのために多くのパレスチナ人の家やオリーブ畑、農地などが接収、破壊され土地が侵食されている。
入植地は政府が建設を推進しているものもあれば、シオニストと呼ばれるユダヤ人達が家を建てて住んでいる集落もある。入植地にもなんと「合法入植地」と「違法入植地」があるらしい。 前者は政府が建設を推進しているもの、後者はシオニストと呼ばれるユダヤ人達が勝手に家を建てて住んでいる集落なのであろうか?まだプレハブのような建物やトレーラーで生活しているユダヤ人の集落が「違法入植地」と呼ばれる。しかしどの入植地もかつてはそのような形から始まっており、開発が進むにつれて徐々に立派な「合法入植地」になるのだろう。 数日前にシャロン首相はパレスチナからの入植地撤退を宣言し、いくつかの入植地をつぶした。その多くは「違法入植地」であり、ほとんどそこには人が住んでいなかったという。この違法入植地はイスラエルのそういった言い訳の為に存在しているのかもしれない。
へブロンという西岸南方にある街を訪れた。他のパレスチナ人の街と違い、この街が抱える大きな問題は入植地の問題である。なんとへブロンの街は中心部(旧市街)に入植地があるのである。実際に訪れてみると旧市街はまるでゴーストタウンのようだった。店はすべて閉じられ、入植地へ自由に出入りができないようにフェンスやゲージが作られている。 なぜ、店が閉まっているか?それはイスラエルからの「営業許可」がおりないかららしい。自分の土地で自分の店を営業する権利をなぜ他国の政府に禁じられなくてはならないのだろうか?しかし、ここには命令に従わなくてはならないという現実があった。
へブロンも他の西岸の街と同様、2002年にイスラエル兵による大侵攻を受けた。6月からなんと100日以上も外出禁止令が続いたのである。所々の建物にはまだ銃痕が残っており痛々しかった。 この街に入植者が多い理由の一つは旧市街の中に預言者アブラハムが昇天したといわれる「アブラハムモスク」があるからだ。そのためただの入植者ではなく狂信的なユダヤ人が多いと言われる。(その多くはアメリカ人らしい。)そのため、この街では入植者とパレスチナ人の衝突が耐えず、へブロンのイスラエル兵はその衝突を防ぐために多く駐在している。なんと400人の入植者の防衛のために3000人の兵士が導入されているというから驚きだ。フェンスの間には必ずイスラエル兵がおり、旅行者である私たちも何度も何度もパスポートをチェックされた。 旧市街はなんとも勝手に入植者が移り住んだもので、もともとパレスチナ人の住んでいた建物の二階より上の階を占拠していたりする。それでも、パレスチナ人は上の階からの嫌がらせに耐えながら一階に住みつづけている。静かな抵抗。イスラエルによる占領に屈せずに日常生活を送りつづけることがパレスチナ人の反抗なのだ。
へブロン旧市街の真中にまだ新しい住宅街があった。以前の侵攻ですべて破壊されたが、旧市街をパレスチナ人のものとして守るため、パレスチナ人に住んでもらおうと国際NGOが建てたものだ。もし家を離れたら戻ってきたときにはイスラエルに占拠されている、これはよくあることらしい。住みつづけることが防衛、そして抵抗なのだ。その中心部に公園があった。制服を着た私立の幼稚園に通う子供達が遊んでいた。子供達の笑顔がとてもまぶしかった。しばらくすると下校時刻になり、子供達は銃を持ったイスラエル兵の脇をとおり、狭いフェンスの隙間を通って家路につく。それがあまりに何気ない風景で、通学するために毎日このような生活を送る子供達を思い胸が痛んだ。 彼女たちにとっての日常。それはあまりに私の生活環境とは全く異なっており、ここには「平和」という文字はなかった。彼女達の将来が決して暗いものではなく公園で見た笑顔そのまま輝いていて欲しいと願うばかりだ。
5、ビルズェイト大学〜進歩的なパレスチナ女性〜
堀越上人に連れられて、ビルズェイト大学を訪問した。当初の目的は大学の教授に会ってお話を伺うことだったがなぜか授業に参加することになった。更に、日本文化を紹介するつもりが気がついたらパレスチナ問題についてのディスカッションになっていた。ビルズェイト大学は西岸ラマッラ―郊外にあり、パレスチナのなかでは優秀な学生が集まっているといわれている。私にとってこのアクシデントは自分と同世代の若者と話をすることができ、とても貴重な機会だった。
始めにパレスチナ人女性についてどう思っているのか聞かれた。イスラムの世界は保守的な国が多く、タリバン時代のアフガニスタンのように女性が外の社会で活躍することには困難を伴うことが多い。私はそのようなイメージをパレスチナ女性にも抱いていたが、同じイスラムの女性であってもパレスチナ人女性とアフガン女性では大きな違いがあることを知った。そしてたとえパレスチナ人同士であっても住んでいる町や村によって習慣が異なることも知った。 パレスチナ人女性はかなり高学歴な女性が多く、大学進学率はなんと3割と高い(日本は約5割)。女性に限らずパレスチナ人は教育熱心で高学歴な人種なのである。教室の前方の席はすべて女性で占められており、後ろのほうで控えめな男子生徒が多かったことが非常に印象的であった。
私は彼らが日本についてどう思っているのか興味があった。彼らが最初に発した言葉は「平和な国、人々」ということだった。うれしいと思ったのも束の間、「パレスチナ人みんなが平和を望んでいる。だからこそ日本は理想の国だった。なのに、なぜイラクに自衛隊を派遣するのか?」と言われた。 また、パレスチナ人は日本人を「犠牲者」として同胞だと思っている。なぜなら広島、長崎の原爆を受けたという理由らしい。だからこそ、日本はパレスチナを助ける義務があるといっていた。 では日本人として私が出来ることはなんだと思うか、尋ねた。外部からの介入は時に現地のニーズと一致せず、問題を大きくしてしまうことさえもある。日本のみならず多くの介入者がいるこの地で私が日本人として出来る役割はなんなのだろうか。彼らは躊躇せず「今あるパレスチナの現状を日本に伝えてほしい」と言った。目の前がすっきりした。出来るだけの多くの人にこの事実を伝えよう、と。マザーテレサの「無関心は一番の暴力である」という言葉を思い出した。日本人は国際問題に無関心すぎる。私がするべきことが見つかった。
紛争解決には客観的な視点が大切である。私は「パレスチナ問題についてどう思うか?」と聞いてみた。そのときに答えてくれた学生の発言は非常に印象的だった。「パレスチナ人にこの紛争のことを聞いても絶対に客観的にはなれない。だから質問に答えるのは難しい」学生達は世界各地の紛争についても知識も豊富であった。世界には多くの紛争があるのは知っているが自分の国の紛争が一番大事だと思ってしまうのだという。だからこそ、客観的になれる国、日本の役割の重要性を感じた。
その他、学生の意見として興味深かったのはパレスチナ問題解決に向けての最終的目標は「パレスチナ、イスラエルによる共存国家建設」だということだった。これはパレスチナ側の多くの団体の意見でもあった。 実際、イスラエルの人々はパレスチナ人との共存国家を望むものはほとんどおらず、国際社会では二国家建設が進められている現実からもパレスチナ人、イスラエル人両民族による一国家建設は難しいだろう。けれどこのような声のあることは注目すべき事実であると思った。
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